天童城跡(舞鶴公園)
天童城跡のある舞鶴山 舞鶴山より天童市内を望む
天童城跡のある舞鶴山舞鶴山より天童市内を望む
舞鶴山山頂舞鶴山に最初に城が築かれたのは、南北町時代の頃、南朝方の忠臣、北畠親房の後えい北畠天童丸が、吉野朝興隆のため、村山盆地を一望するこの地に居を構えたのが始まりと言われている。その後、北朝方の勢力が強まり、天授元年(1375年)に、北朝方の成生荘の荘官、里見頼直が、成生からこの地に城を移し、更に堅固な山城にした。この城は、全山を自然の城塞としたもので、周壁は、自然の侵触に任せた典型的な山城であった。山頂に本丸を構え、これを中心にして、西方の峰峰には八森楯、小松楯などの補助楯を設け、重臣を配し守備させた。大手門は山の東方、溺手門は西方のあって北目や小路には、それぞれ武家屋敷が建ち並び、門前には市が建つなど、活気ある城下町を形成していた。
領主は代々、天童氏を名乗り、山形最上氏と肩を並べる奥州の名門として、その威容を誇ったが、十代頼久の時代に、義兄の山形城主最上義光に攻められ、壮絶な戦いの末、天正12年(1584年)10月10日、ついに落城し、頼久は、伊達家の家臣国分氏に逃れた。ここに初代頼直から数え、209年間の長きにわたるる天童山城時代は終わり、以後この地に再び城が築かれることはなかった。
その後、天童は最上氏の所領するところとなり、義光は山頂の本丸後に愛宅権現を祀り、戦死者の霊を慰めるとともに。一族の安泰を祈ったが、その最上家も天童落城から28年後の元和八年(1622年)徳川幕府によって改易となった。
春には人間将棋が行われる

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