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| 中野城跡碑 | 大郷小学校正面 |
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中野城は、中世における山形城の支城として、山形三代最上満直の次男満基が、応永年間(15世紀初め)に築城した蓮廊式の平城である。本丸は東西約340m、南北約250mで、約73,000uの広さであるが、二の丸を含めると171,500uで、内堀は幅6m〜10mで、高さ2mの土嚢の巡らし、二の丸にあたる南西部には外堀を構築し、東北部には寺院を配置している。中野の地は、戦略上、経済上のみならず、水・陸の交通上からも重要な地点であった。 六代義時にいたり、兄義光との家督争いから不和となり、さらに天正3年(1575年)義時方の義光呪詛一件が露顕して、義光方の夜襲に会い、中野城や寺院は灰じんと化したという。義時は切腹し、その子備中は仙台へ逃れ、中野氏はついに滅亡した。中野領は義光の支配となり、重臣を輪番で中野城に配置し、中野氏の旧臣は、最上氏の家臣団に編入された。 元和八年(1622年)最上氏の改易後は、この城も廃城となり、ついに破却された。現在、当時の面影を偲ぶものは、堀形の一部と、楯・北口・中小路・楯坂・袋町・男倉前・築坪山・七日市場・的場・大手窪・馬場宿・馬洗場などの地名である。現在の大郷小学校は、本丸の西部に位置している。 |
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